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~日常とイラストと寺社巡りブログ~

熊野詣とは②熊野権現と信仰のはじまり

2016.12.1記録

● 熊野信仰とは
 
和歌山の「熊野本宮大社(熊野坐神社)」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社を合わせて「熊野三山」といいます。神道と仏教の要素を併せ持つ「死と再生の異界の地」熊野とは。




年表が予め頭に入ってると理解しやすいです

縄文ー弥生古墳ー飛鳥ー奈良ー平安ー鎌倉ー室町

3万年~紀元前1年 ← → 西暦1年(弥生)~20XX年

・BC660年(弥生時代)神武天皇が初代として即位
・BC538年(古墳時代)仏教伝来
・712年(奈良時代)日本最古の歴史書「古事記」完成
・次いで720年(奈良時代)に「日本書紀」完成


チェックポイント

①「古事記」「日本書紀」に書かれた日本の始まりは、物語・神話的で信憑性が無いとされており、神話にしか記録を残さない数十代の天皇に関しては存在しなかったのではないかとする説があります。

熊野神の誕生も神話的で諸説あり詳細は謎です

② 古来(縄文~弥生)から先祖や自然物に神を見いだす神道の考えがあった日本に、538年(古墳時代)、仏教が伝来します。人々は「仏」を日本の「神」と同じものと受け止めていましたが、やがて異なることを理解し、日本の神様たちのことも救済して!と仏に解脱を求めます。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といいます。日本の神々は仏や菩薩が仮に現した姿(本地仏)であるという仏教優位の思想が広まり、姿形のない神を絵にする際は仏で代替されました。神=仏の思想で各地の神社の祭神に本地仏(ほんちぶつ)が定められていきました。

例)天照大神=観音菩薩・日吉神=釈迦如来・熊野権現=阿弥陀如来 etc

★ 熊野も奈良時代から「神仏習合」の形をとり各社の祭神に本地仏を定めました。

<熊野三山(熊野三所権現)>
・【本宮】熊野本宮大社 ケツミコ神=阿弥陀如来
・【新宮】熊野速玉大社 ハヤタマ神=薬師如来
・【結宮】熊野那智大社 フスミ神=千手観音
権現(ごんげん)…神が仏に姿を変えて人々を救う為に現れること

③「本宮」は1889年の大洪水により場所をうつして再建、「新宮・速玉」は1883年に炎上し再建、「結宮・那智」は信長の焼き討ちにあうも秀吉により再建。平成23年9月にまた大水害で大きな被害を受けるも再建と、熊野は何度も危機に合いながら復興を遂げてきました。

④当記事内の写真は新熊野神社の境内・京の熊野古道で撮りました。


【 神道の熊野と神々 】

※ 神道における日本の神とは「先祖の霊」「自然物や物体に宿る精霊」で、現世の人間に恩恵をもたらす守護神です。祟ることもあります。

熊野の地名は「古事記」「日本書紀」から記録されています。縄文・弥生の頃より熊野の山岳地帯には狩りをしながら暮らす人々がおり、山岳信仰の修験者がおり、自然を崇拝してきました。

「熊野の神」とは「大自然そのもの」であり、本宮の「川」・新宮神倉山の「巨岩・ゴトビキ岩」・那智の「滝」を御神体とし、精霊の存在を感じてきました。

①熊野速玉大社の摂社・神倉神社ゴトビキ岩が磐座(いわくら)であり、はじめて熊野の神が降り立った熊野信仰における原始信仰の母胎です。弥生時代とされています。

また、祖霊も大切にしており「花の窟(いわや)」という巨岩に眠るとされる神々の母・イザナミを悼む祭事も古来より行われてきました。熊野はイザナミが眠る地、死者が隠(こも)る「黄泉・死者の国」として知られていきます。

▼花の窟


奈良時代には「本宮」にケツミコ(スサノオノミコト)、「新宮」にハヤタマ・フスミといったはっきりとした神格を祀り栄えていきます。(那智は修行場)平安時代には「結宮・那智」の滝を御神体とする飛滝(ひろう)権現が発展。またこの頃にそれまで別個に発展してきた三社は思想上一体化したとされ、熊野神=熊野三所権現が成立したと考えられます。

②神仏習合以降に書かれただろう「熊野三巻之書」によると、神倉山にはじめておりた神は天竺(インド)のマカダ国から飛来したそうです。かつて本宮・熊野坐(くまのにます)神社は3つの川の合流地点、大斎原(おおゆのはら)にありました。神倉におりた神が大斎原のイチイの木の梢に3枚の月となって現れ「我は三所権現だ」と名乗ったので、発見した千代定(せんのよじょう)という猟師は慌てて3つの宝殿を作り祀ったとされています。飛鳥時代のことです。

▼(左)那智の滝 ②大斎原 ①神倉山ゴトビキ岩


 

【 浄土信仰の熊野と仏 】


※ 仏教では神は重視されず、神は迷いの存在ともされ、ブッタが一番という考えです。修行を積み悟りを開くことでブッダに近づくことが出来ます。祟りはありません。
 
奈良時代以前より宗教世界を形成してきた吉野~熊野にかける山脈は修験道の修行場とされ、修験者(山伏)達は那智で滝修行をし妙法山に住み日々修行していました。如来の供養の為に己の身を捨てる捨身行(しゃしんぎょう)を行い、平安時代には観音の浄土での往生を願って船出する入水往生・補陀落渡海(ふだらくとかい)も行われました。

「本宮」は西方・極楽浄土、「新宮」は東方・浄瑠璃浄土、「那智」は南方・補陀落浄土の地であると考えられていました。

真言宗、天台密教、浄土教…あらゆる宗教・山伏が入り乱れ、浄土信仰が形成されていき、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされます。やがて那智・新宮・本宮の修験者集団を組織し管轄する熊野別当(くまのべっとう)が成立します。後に白河上皇の熊野御幸(ごこう)の先達(せんだつ・道案内)を務めた天台寺門派の増誉(ぞうよ)が三山検校職(けんぎょうしょく)に任命され三山全体を監督するなど、熊野は皇室と山伏の保護の下で管理、一体化され白河上皇の御幸から急速に栄えていきます。

平安中期から鎌倉時代にかけて、熊野の山伏や比丘尼(びくに・尼さん)達は山をおりて全国各地に赴き、「熊野曼荼羅(くまのまんだら)」という絵を使用した絵説きで熊野三山の凄さを宣伝してまわります。これは社殿の修復や食料といった熊野への布施を求める勧進活動でした。この頃に「熊野牛王宝印(くまのごおうほういん)」というカラス文字の神符が売られました。

▼熊野曼荼羅「熊野本宮八葉曼荼羅」
 

※「熊野歓心十界図」は京都の六道珍皇寺で見れます(特別公開)

▼熊野牛王宝印(京都熊野神社)
 

熊野の知名度は徐々に上がっていき、鎌倉時代には3千を超す熊野社・王子社が全国に勧請され、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど庶民の間で大流行しました。京都にも熊野好きで知られる後白河上皇によって「三熊野」が勧請されています。

記事:【京都】熊野神社・新熊野神社
記事:【京都】熊野若王子神社

仏教優位で栄えた熊野三山でしたが、江戸時代になると神仏習合や熊野別当の廃止により、社殿の造営や修理の権利は神社側に移ります。山伏や比丘尼達による先達(せんだつ・道案内)も機能を果たせなくなり「熊野詣」は衰退していきましたが、当時流行していた西国巡礼に組み込まれるなどして細々と続けられ現在に至ります。


まとめ

元々の神道と山岳信仰の中に仏教、熊野修験が加わり時代の流れと共に「熊野三山信仰」は完成します。
 
浄不浄問わず、性別問わず、分け隔てなく救ってくれる神仏として全国で流行した熊野神=熊野大権現。人々は慈悲を求めて、険しい道を命がけで歩きました。多くの人々が踏みしめた道はやがて「熊野古道」となっていきます。無事たどり着いた者は、その苦行と感慨深さから涙を流し、新しい自分に生まれ変わります。こうして熊野という地は「過去・現在・未来を救済する霊場」であり「全ての罪業が消滅し生まれ変われ幸福な余生が約束される」「死と再生の地」になっていったのでした。



省略した箇所が多々ありますがなんとかまとまりました…。簡単にまとめようと思ったのに想像以上に時間がかかりました;まだ謎な部分がけっこうあるのでもう少し勉強したいと思います。気付いたことがあったら随時追加・修正します。


③上皇と先達と熊野詣に続きます

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